【ネタバレ注意】映画「母性」の3つの考察ポイントをまとめてみた

映画考察

こんにちはSATOです。

今回は映画「母性」のネタバレありの感想と個人的な解釈を踏まえて、3つのポイントで解説していきたいと思います。

映画「母性」は廣木隆一監督による2022年の日本のサスペンス・ミステリー映画です。

この映画はベストセラー作家・湊かなえの累計発行部数90万部を超えるミステリー小説を映画化しています。

”母性”というものは本能的に備わっているのか否か?

という主題になっていて、これまでの湊かなえ作品とは一線を画すような内容となっています。

そしてラストでは、これまでの私たちの想像を超えてくる展開が待ち受けていて、愛や親子関係について深く考えさせられた作品でした。

本文をお楽しみください。

映画「母性」あらすじ

女子高校生の晶が自宅の庭で転落死するという事件が起こりますが、事故か自殺か、真相は分からないままです。

今作の主役である、娘を愛せない母親・ルミ子と、母に愛されたい娘・清佳は、同じ事件を語りますが、2人の証言は、次第に食い違い始めていきます

ルミ子は娘への愛情を言葉で表現できず、厳しい態度で接します。

一方、清佳は母に認められようと努力しますが、空回りしてしまい、互いの心の距離は遠ざかり、次第に清佳は心を閉ざしていくのです。

事件の真相は、衝撃的な事実と共に明らかになっていき、愛憎が交錯する母娘の物語は、観る者に深い問いかけを残すでしょう。

映画「母性」は、母と娘の複雑な関係を描いた作品です。

娘を愛せない母親と、母に愛されたい娘の2人の視点から語られる物語は、次第に衝撃的な真実へと導かれていきます。

今作は、母性とは何か、親子とは何かを問いかける作品です。

映画「母性」哀しき結末までの過程を描く母と娘の3つの真実とは

考察1:食い違う展開に恐怖

今作の見どころのひとつは、同じ時系列の物語を母と娘のふたつの視点から見ていくことでした。

”親の心子知らず””子の心親知らず”と言いますが、まさにそれを映像表現としてうまく落とし込んでいました。

”母の真実” ”娘の真実”とそれぞれのパートで微妙にセリフや表情が異なっていたり、そもそも行為自体が全く異なっていたり、同じ事象でも各々の視点で受け取り方が異なる展開は、映画を鑑賞して飽きを感じさせない面白い手法だと思いましたね。

どちらもが真実として描かれているので、事実がどうなっていたのかは最後のパートまで分かりませんし、「イニシエーション・ラブ」のような2つの側面から事実を追いかけていく楽しさはありました。

母と娘という独自のフィルターを介してそこに少しずつ、でも確かに歪みが生まれていく様子は、今作を面白くさせていた要素のひとつだと感じました。

日常生活でも人に何かを伝えるのって難しいですよね。

言葉や表情、相手がどう受け取るかを考えることが、どれだけコミュニケーションに大切かということが身に沁みて分かる作品でした。

考察2:家族に蔓延る不協和音が妙にリアル

今作はとにかく”家族”という組織における関係性がもう目を覆いたくなるほどに最悪です。

家族の会話のシーンの内容は優しさや感情が存在しないような感覚を覚えました。

精神的なスプラッター描写というか、家族間のコミュニケーションがあまりにも辛辣で、映像自体は全く平和なのに、見ていて頭を抱えてしまうようなシーンがいくつかありました。

台詞回しやカット構成自体は舞台っぽい雰囲気ですし、音楽が一定のリズムで流れているシーンが多いので、小説を読んでいるかのような淡々と物語が進む感じはあるんですね。

映画を鑑賞した人なら100%共感してくれると思うんですが高畑淳子さんが演じた姑がもうヤバすぎましたよね。

ある意味今作の1番の見どころだったようにも思います。

それくらい強烈な印象を与える演技でした。

実母と家を同時に失った主人公のルミ子は旦那の実家に娘と共にお世話になるんですが、頭おかしくなるくらい口うるさい人でちょっとルミ子に対する扱いが酷すぎましたね。

それもこれも、ルミ子を演じた戸田恵梨香と姑を演じた高畑淳子の演技が最高だったからこそだと思います。

ルミ子を演じた戸田恵梨香が姑から精神的な攻撃を受けたことでやつれていく様子は、目を覆いたくなりましたし、逆に姑を演じた高畑淳子の有利な立場からの物言いや仕草、食卓を囲むシーンなど、とにかく最高に嫌な女を演じる演技力は圧巻でしたね。

淡々とした展開に飲まれない圧倒的な演技力、それによって顕著になっていく家族間の不協和音がなんとも堪らない怖さを生み出していました。

精神的に落ち込んでいる時に見るのは決してお勧めしませんが、不思議な関係性に少しずつ飲み込まれていく感覚を楽しみたい時は鑑賞してみるのもありだと思います。

3考察:名前を呼ぶシーンの役割

祖母が自分のせいで自殺してしまったことを知ったルミ子の娘はその後、実の母親に首を絞められますが、その手を振り払い、首吊り自殺を図りました。

しかし、祖母によってそれは阻止され、一命を取り留めます

そこでルミ子から初めて自分の”清佳”という名前を呼ばれます。

確かによくよく考えてみると、ルミ子は自分の娘の名前を呼んだシーンはなく、ここで初めて自殺をした女子高生とこの物語の主人公が違う人物であることが分かるというのが、小説ではどんでん返し的な感じになるんだと思うんですが、映画だと教師と少女のどちらも永野芽郁が演じていたので、その驚きみたいなものは無かったですよね。

ただ、名前を呼ぶというシーン自体に意味はあったと感じていて、この瞬間まではルミ子にとって娘は一種の道具でした。

家を失うまでは実母を喜ばせるためだけの存在であり、家と実母を失ってからは義母に迷惑をかけないでほしい存在でした。

ルミ子にとって、清佳は自分が好かれるためだけの道具として存在していたのですが、いざその存在を失ってしまうかもしれないという状況に陥った時には、他のことは全てどうでも良くなり、清佳という名前を呼んで命を繋ぎ止めようとしていました。

ここで初めてルミ子の中に”母性”というものが目覚めたのだと思います。

大袈裟かもしれないですが「母性の目覚め=名前を呼ぶ」というのは確かにそうかもと思っていて、名前を与えることでただの赤ちゃんから自分の子供になると思いますし、このシーンはなんかすごくいいシーンだったと思いますね。

僕は男性ですし、まだ子供もいないので正直この映画をどこまで理解できたのだろうかという疑念もありますが、そんな僕でも母と娘、親と子の間にある不思議な関係性について改めて考えさせられました。

また家庭環境で人格が作られることの、いい面と悪い面の両方を観ることが出来たように思います。

老若男女問わず、いろんな感じ方が存在する作品でとてもおもしろかったですね。

まとめ

今回は映画「母性」を、感想と個人的な解釈を踏まえて3つのポイントで解説していきました。

この作品のテーマである「母性とはなんなのか?」という問いに関してですが、個人的には”母性とは目覚めるもの”なのではないかという解釈をこの映画を通じて考えました。

「女性には2種類存在する、母親か娘か」と清佳が言っていたように、境界線が曖昧な母親と娘という関係性に、湊かなえなりの答えを描いた作品だったと思います。

冒頭でもお伝えした通り、湊かなえといえば「告白」のイメージがかなり強かったのですが、今作も彼女を代表する映画になったのではないでしょうか?

次回はどんな作品を観せてもらえるのか、さらに楽しみになりましたね。

最後まで読んでいただきありがとうございました。

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